現代の日本では、昔の戦国時代のように、直接の命のやり取りはありません。でも、日々、闘いの中にある人は多いと思います。
職場の中でも、家庭の中でも、誰もいない一人の時にさえ、心の中で何かと闘っているわけです。
そんな毎日を当たり前のように過ごしていると、疲れてきませんか? ひょっとすると、自分が疲れていることにすら、気付いていないかもしれません。
本当の強さとは、どこにあるのか、ゲーテの言葉から紐解いてみたいと思います。
Contents
闇すらも包み込み、打ち消す安らかな心
私は勘違いしていたようだ。
真の強さとは、恐怖や苦しみに抗う心を言うのではなく、闇すらも包み込み、打ち消す安らかな心を言うのだな。
これは文豪のゲーテ(1749~1832年)の言葉です。
ゲーテもシェイクスピアと同じく、人生を知り尽くしたような珠玉の言葉を、本当に数多く遺していますね。吐く言葉、吐く言葉が、全て名言になってしまうような人です。
生きている時代も、住んでいる国も違うのですが、現代人が読んでもハッとさせられる言葉が非常に多いです。
ゲーテが言っている「闇すらも包み込み、打ち消す安らかな心」とは、いったいどのような心境なのでしょうか?
病気は闘って治るものではない
例えば、病気になると、「闘病」という言葉がよく使われます。でも、病気は闘って治るものではないと思うのです。
今、闘病生活をしている人からは、「そんな簡単に言ってくれるな!」と怒られそうですが、私は以下の経験を通じて、そのように感じました。
「腰痛になんて負けるものか!」と思っていた時期
二年ほど前、私は腰痛になり、ひどく苦しんでいた時期があります。
「病は気から」と言いますから、当時の私は寝る前に「腰痛になんて負けるものか!」と呪文のように唱えて、自分を強くしようと奮闘していました。
「腰の筋肉が弱っているのだから、こんな時こそ鍛え直そう!」と、妙にポジティブにも考えてもみました。
でも、そう考えて腰痛と格闘していた時期には、かえって腰痛が悪化してしまったのです。治療院にも通いましたが、まるで効果なしです。
ちなみに、後で知ったことですが、腰痛は筋力の低下で起きているのではないので、筋肉を鍛えて治るものではありません。
とうとう私は数ヶ月ほど、まともな生活が送れないほどの状態になってしまいました。
この状態で、もしも一人で放置されたら、「確実に死ぬな…」と実感しました。起き上がろうとすると腰に激痛が走るので、本当に自力では動けないのです。
いわゆる「孤独死」の中には、腰痛で動けなくなって衰弱死してしまったケースも多いのではないかと、真剣に考えました。腰痛には外傷がないので、検死では死因が分からないと思います。
病気の時にしか出来ないこともある
最初は「腰痛になんて負けるものか!」と思っていた私ですが、あがいてもどうにもならないので、腰痛を受け入れることにしました。
「何かの意味があって、このような経験をしているのだ」と思い直したわけです。素直に受け入れたわけではなくて、仕方がないので渋々そう思うようにしたわけです。
そしてどんな日々を過ごしたかと言うと、一日中、寝ているだけです。自分が全くの役立たずの人間になってしまったように思えて、情けない気持ちで一杯でした。
でも実は、それも無駄ではなかったのです。長い人生の中には、病気の時にしか出来ないこともあるのです。
それは、今までの人生を静かに振り返ってみることです。
これは忙しい時には、なかなかできません。朝から晩まで働いて、ぐったりと疲れてしまい、あとは寝るだけで一日が終わってしまうからです。
何もかも順調に事が運んでいる時にもできません。イケイケの状態になっているので、過去を振り返る必要など感じないからです。
自然に涙が流れ出てきた経験
もともとの私は、自己主張の強いタイプの人間だと思います。30代半ばくらいまでは、その傾向が強く出ていて、自分勝手な振る舞いをし、平気で人を傷付けてしまうような言動も数多くしていました。
両親に対してもそうでした。親は保守的だったので、そういう考え方が嫌いでした。なので、親が期待しているような道は歩みませんでした。
時々そんな自分を振り返って反省はしていたのですが、それではまだまだ、不十分だったんですね。
腰痛になって、丸一日中、寝ているしかないような状態になった時、過去の自分の行動や言動を振り返っていたら、自然に涙が流れ出てきました。
そんな経験は生まれて初めてでした。
私が腰痛になった意味
私は人生の途上で出会った様々な人たちに対して、「申し訳ないことばかりしてしまったな…」と深く反省したわけです。
反省と言っても、それはマイナスの感情ではありませんでした。
むしろ、安らかな気持ちと、未熟な自分を支えてくれた人たちへの感謝の気持ちが、ふつふつと湧き出てきました。
もしも腰痛で動けない状態にならなかったら、そんな機会は当分なかったでしょう。
「なるほど、これが腰痛になった意味なのだな」とすら感じました。
不思議なことに、その日を境にして、腰痛が改善していったのです。
病気の日々にさえ、価値は見出せる
他人から見れば、「たかが腰痛」かもしれませんが、私には考える時間がたっぷりとあったので、一度、自分を見つめ直したわけです。
何もできず、苦しみとしか思えないような時間が、実際には非常に価値のある時間であったのです。
真の強さとは、静寂の中にある
今振り返ってみると、ゲーテが述べている「闇すらも包み込み、打ち消す安らかな心」という感覚が、あの時、うっすらと分かったような気がします。
感情が荒く波立ち、何かに向かって吠え立てているうちは、まだ真の強さになっていないのですね。
真の強さとは、静寂の中にあるのです。
ところが、現代人は静寂の時間を、恐れてさえいるのではないでしょうか? 無意識かもしれませんが、自分と向き合う時間を、本能的に避けているのかもしれません。
恐いのは敵ではなく、本当の自分と向き合うことです。実は、それが一番恐いことなのではないでしょうか?
目の前の闇は消そうと思っても、消せるものではありません。自分の懐を広げて、その闇すらも包み込んでしまう。その闇とは、実は、自分自身の写し絵でもあるのです。
そんな心境になれた時、ゲーテの言葉の真の意味が分かってくるのではないでしょうか?
明日からまた元気に頑張ろう!
闘うことに疲れた時には、一旦、闘いの土俵から降りて、静寂の時間を大切にしてみてください。逃げているように思うかもしれませんが、そうではありません。
人生の中で、今までの自分を見つめ直す時間が足りていないのです。過去の自分を振り返ってみることです。
「あー、自分はこんな酷いことを、平気でヤラかしてきた人間なんだな」と思い始めた時、自然に涙が滲み出てきませんか?
その涙が、疲れた心を、綺麗に洗い流してくれます。慈雨の涙というのは、本当にあるのですね。
闘っているうちは、勝ち負けの世界しかありません。
本当は、勝ちにも負けにも意味があります。どのような結果からも、何かを学び取ることにこそ、人生の最大の価値があります。
苦しい病気の日々にさえ、価値は見出せるのです。
そう思えた時に、「明日からまた元気に頑張ろう!」と、真の強さが湧き出てくるはずです。